「順正」の由来

高梁で培われた「心」を感じ、育てよう

明治14年(1881)にのちの順正女学校となる私立裁縫所が、高梁キリスト教会で洗礼を受けた福西志計子によって高梁のまちに設立されました。「女性に自由な教育」を理念にした順正女学校は、神戸などの先進校から女性教師を招くなどして充実した教育を行い、特に高梁での女性の地位向上や、女子教育に大きく貢献しました。こうした素晴らしい教育理念に共鳴し、私たちは高梁の地にその名を刻んでいる順正女学校の名を受け継いでいこうとの思いから、順正短期大学という名を冠しています。古くから高梁の地で培われた伝統ある熱い教育への心は、今なお私たちに受け継がれているのです。

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福西志計子

松山藩士・福西伊織の家に生まれ、母の意向で山田方谷に漢学を学びました。その後明治9年(1876)に高梁小学校付属裁縫所の教師に。明治14年(1881)にのちの順正女学校となる私立裁縫所を設立。女性教育の道を拓きました。
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山田方谷

江戸時代末期から明治時代初期の漢学者で、備中松山藩士。方谷の精神は「至誠惻怛」と言われ、その意味は「まごころといたみ悲しむこと」。政治顧問として幕政にも関与していましたが、明治維新を境に教育に専念して優れた人材を育てました。

順正女学校最後の乙女たち‐〈順正〉の心を一筋に‐

福西志計子の〈順正〉を道標としてかつての女学校時代を生き抜き、新しい時代の女性として職業と人格とを〈順正〉の許に陶冶し続けて歩いた方々が、令和元年八月三一日の「勿忘草の会」に参加頂いた時の談話と、この集まりの後にそれぞれの方を訪ねお聞きしたお話しを、デジタルブックにて公開しております。

デジタルブック:順正女学校最後の乙女たち‐〈順正〉の心を一筋に‐